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創業者 野村とみについて

漫画『サザエさん』のような
明るく元気な家庭に憧れ、
大きなおはぎを握っていた創業者・野村とみ。
サザエで働く社員や職人たちによって
語り継がれてきた、
彼女の名言とエピソードをまとめました。

野村とみ
野村とみ
1926年2月19日樺太生まれ。9歳の時に満州牡丹江市へ渡り、21歳まで過ごす。後に父母の故郷である青森に帰り、24歳で結婚。函館に嫁ぐ。
1957年、函館朝市で「サザエさん」を個人開業。1970年、“お母さんの手づくりの味”を多くの方にお届けしたいという思いで、札幌にて「サザエ食品株式会社」を設立。札幌・北海道のみならず、全国に支店・店舗を持つに至った。2018年に永眠。

サザエさん 呼ばれ続けて

「サザエさん」と呼ばれ続けて

1957年、函館の朝市の一角にて、小さな食堂を営みはじめたとみ。
長谷川町子さんの漫画『サザエさん』のような明るい家庭に憧れて付けた「サザエ」の店名は、やがてとみ自身の愛称となり、お客様からは「サザエさん」と呼ばれていました。

そして現在も、わたしたちは日頃ご愛顧いただいているお客様から「サザエさん」と呼ばれています。変わらずに「さん付け」で呼ばれているのは、お客様にとって親しみやすい存在であり続けることに成功した証なのかもしれません。

とみとおはぎと 母の思い出

とみとおはぎと母の思い出

食堂を営む日々の中、ある時とみは子どもや従業員のためにおはぎを握ることを思い立ちます。握りながら、とみの脳裏には幼い頃に母のおはぎづくりを手伝った記憶が浮かんでいました。

子どもの頃のとみは、経営者として忙しい日々を過ごす母に反発心を抱いていたといいます。
ところが、自身も子を持つ経営者となり、少しずつ自分が母に似ていくことを意識するようになっていました。
「おはぎができあがった時、私ははじめて母を認めることができました」と、のちに自伝の中で述懐しています。

小さいおはぎは つくっては駄目

小さいおはぎはつくっては駄目

とみが握るおはぎは、10個入りの箱に6個しか入らないほどの大きなサイズが特徴でした。
おはぎを握る際、とみが繰り返し言っていたのは「多少大きくなったってかまわないから、小さいおはぎだけはつくっては駄目」ということ。

とみがおはぎづくりをはじめた戦後は、物資は乏しく、食事も満足にできなかった時代です。
せめてお客様には満腹になってほしいという想いが、とみの大きなおはぎに込められていたのです。

とみさんがいると 場が引き締まる

とみさんがいると場が引き締まる

現役を退いてからも、とみは繁忙期になると工場に赴き、おはぎづくりに臨みました。
お彼岸に家族が集まっておはぎを握る光景を覚えているとみにとって、家族同然の従業員たちと一緒につくることは、いつまでも大事なことだったのかもしれません。

「とみさんが来ると、場が引き締まる感じがする」と、とみと並んで作業をしていた工場の職人たちは回想します。

元気がいいのが サザエさんだね

元気がいいのがサザエさんだね

わたしたちの接客の基本である元気のいい挨拶は、誰よりも大きな声で接客していた、野村とみからの教えのひとつです。
物産展や催事に出店する際、一際大きな声で実演販売をおこなっていたとみの姿は、百貨店の担当者の方の目にも止まり、その後の出店のきっかけにもなりました。

徐々に店舗数を拡大する中でも、お客様からよく言われていたのが「元気がいいのが、サザエさんだね」という言葉です。
現在も変わらず、元気のいい接客はわたしたちのトレードマークであり続けています。

会長室のドアは いつも開けたまま

会長室のドアはいつも開けたまま

70歳を超えてからも毎日会社に足を運んでいた野村とみは、オフィスの出入り口付近にあった会長室のドアを、いつも開けたままにしていました。

従業員や業者の方々が前を通るたびに「おはよう」と声をかけ、そのまま小一時間ほど世間話に花を咲かせることも。
そんなとみの姿があったからこそ、家庭的なサザエの社風が育まれ、現在もなお息づいているのです。